1-1-1. 天皇の地位と主権在民
The Emperor as a Symbol and Popular Sovereignty
日本国憲法第1条
天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
本条は、天皇の地位を「象徴」と定義するとともに、その根拠が「主権の存する国民の総意」にあることを明記し、国民主権の原理を宣言している。大日本帝国憲法1条が「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と規定し、天皇主権・統治権の総攬者としての地位を定めていたのと対比すると、現行憲法における天皇の地位の本質的転換は明白である。
「象徴」概念の法的性質
「象徴」とは、ある抽象的な観念・価値を具体的な存在によって可視化・体現する機能を指す。国旗・国歌がそれぞれ国家を象徴するように、天皇は「日本国」および「日本国民統合」という二つの観念の象徴とされている。
もっとも、象徴としての機能は規範的命令ではなく制度的事実の確認に近い性格をもつとも解されており、「天皇は象徴でなければならない」という義務規範というより、「天皇の地位はこのようなものである」という制度的定義に重点があるとみる見解もある。この理解によれば、象徴性はそれ自体から直接に法的効果(権限・免責など)を導くものではなく、憲法の他の条文と組み合わせてはじめて具体的な法的意味を獲得する、ということになる。
この点は、天皇の民事裁判権免除(平成元年最高裁判決)をめぐる議論において鋭く争われた。上告人は「象徴とは物体についての物理的存在の規定であり、人間性・人格性とは関係がない」「象徴規定は内容のない規定であり、そこから民事裁判権免除の効果を発生させることはできない」と主張した。最高裁は「象徴であることにかんがみ」の一言で結論を導いたが、この論理の飛躍については学説上の批判が残されている。
「国民の総意」の意義
天皇の地位の根拠が「主権の存する日本国民の総意」に基づくとされている点は、国民主権原理との接合点として重要である。「総意」とは単純多数決を意味するのではなく、国民全体の合意・承認という規範的・理念的概念であると解されている。
これは、天皇制の存廃が国民の意思によって決定されうるという含意をもつ。上告理由書において「これは無用な存在として天皇制を廃止できることを明らかにしている」と述べられているのは、まさにこの点を衝くものであり、現行憲法の構造上、天皇制は固定的・永続的制度ではなく、民主的な憲法改正手続を通じて変更可能な制度として位置づけられているという理解と整合する。
国民主権と公務就任権:外国人の地位との関係
本条が定める国民主権の原理は、誰が国家の統治に参加し責任を負うべきかという問題を規律する基本原理であり、公務員制度の設計にも直接の影響を及ぼす。
この点が具体的に争われたのが、最高裁大法廷平成17年1月26日判決(管理職選考受験資格確認等請求事件、民集59巻1号128頁)である。東京都が特別永住者である在日韓国人の管理職選考受験を拒否したことの適法性が問われたこの事件において、最高裁は以下のように判示した。
住民の権利義務を直接形成し範囲を確定するなどの公権力の行使、あるいは普通地方公共団体の重要な施策に関する決定を行い又はこれに参画することを職とする「公権力行使等地方公務員」については、国民主権の原理に基づき、国および普通地方公共団体による統治の在り方については日本国の統治者としての国民が最終的な責任を負うべきもの(憲法1条・15条1項参照)であるから、原則として日本国籍を有する者の就任が想定されており、我が国以外の国家に帰属しその国との間で国民としての権利義務を有する外国人が就任することは本来我が国の法体系の想定するところではない。
そして、普通地方公共団体が管理職の任用制度を構築した上で、日本国民である職員に限って管理職に昇任できることとする措置は、合理的な理由に基づいて日本国民である職員と在留外国人である職員とを区別するものであり、労働基準法3条にも、憲法14条1項にも違反しないと解するのが相当である。
この判断の核心は、国民主権と統治責任の連鎖にある。統治権の行使は最終的に国民が責任を負うべきものであり、その責任の連鎖に組み込まれない外国人が公権力を行使する地位に就くことは、制度的前提と整合しないという論理である。憲法1条が定める「主権の存する日本国民の総意」という文言は、この文脈において、単に天皇制の根拠規定にとどまらず、統治参加の主体的資格に関する原理規定としても機能していることが示されている。
なお、本判決は公権力行使等地方公務員という限定された類型についての判断であり、一般の公務員や非管理職については国籍条項が当然に及ぶものではない。また、外国人の権利の限界を論じる文脈では、在留制度の枠内での保障との関係についても慎重な検討が必要であり、学説上は本判決に対して批判的な見解も存在することに留意を要する。
天皇の裁判権
天皇の民事裁判権免除
天皇には、民事裁判権が及ばない。
天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であることにかんがみ、天皇には民事裁判権が及ばないものと解するのが相当である。したがって、訴状において天皇を被告とする訴えについては、その訴状を却下すべきものである。
天皇の象徴という特殊な地位に鑑み、公人としての天皇に関わる行為については、内閣が直接的・間接的に補佐し、その行為に対する責任もまた内閣が負う。したがって、天皇自身には民事裁判権がない。本件(病気平癒の記帳所設置)は象徴たる地位に由来する公的なものであり、純粋に私的なものとはいえない。
控訴審:東京高等裁判所(平成元年7月19日)民事裁判権は本来わが国にいるすべての人に及ぶべきであるが、天皇は主権者たる日本国民の総意に基づく象徴であり、一般国民とは異なる法的地位にある。 もし民事裁判権が及ぶとすれば、天皇が被告として出廷したり証人となる義務を負うことになり、これは象徴としての地位と全くそぐわない。これは、天皇が刑事訴追されないことや、選挙権・被選挙権を有しないこととも整合する。
本件は、千葉県知事・沼田武が昭和63年9月23日から昭和64年1月6日にかけて、昭和天皇の病気快癒を願う県民記帳所を公費で設置したことに対し、千葉県の住民が地方自治法242条の2第1項4号に基づく住民訴訟を提起した事件である。訴えは二本立てで構成されており、①知事・沼田武に対する損害賠償請求、および②昭和天皇の相続人たる今上天皇(当時・明仁)に対する不当利得返還請求からなる。本稿が扱うのは後者、すなわち天皇を被告とする訴えの適否である。
訴状が裁判所に提出されると、第一審・千葉地裁は被告天皇への送達を行うことなく訴えを却下した。上告審に至るまで三審とも同様の結論をとり、最高裁は「天皇には民事裁判権が及ばない」との法命題を確立した。
判決の論理構造と問題点
三審の論理は、それぞれ微妙に異なるアプローチをとっている。
第一審(千葉地裁)は、天皇に係わる公的行為については内閣が補佐・責任を負うという「内閣責任代替論」に依拠した。ただし、この論理は「公的行為については内閣が責任を負うが、では純粋私的行為についてはどうか」という問いを残す。第一審は本件記帳所設置を「象徴たる地位に由来する公的行為」と性質決定することで、私的行為への射程を曖昧にしたまま回避した。
控訴審(東高裁)は、より正面から「天皇の憲法上の特別な法的地位」を根拠とし、被告・証人出廷義務が象徴としての地位と「全くそぐわない」という実質論を展開した。また、刑事不訴追・選挙権不所持との体系的整合性を論拠に加えた点に特徴がある。
最高裁は「象徴であることにかんがみ」という一言で結論を導き、具体的な理由付けをほとんど示さなかった。これは判決の簡潔さゆえでもあるが、学術的には理由不備との批判を招く余地がある。上告理由書においても、「原判決は『象徴』という規定から何らの理由を示さず直接的に結論を出しており、理由不備の違法がある」と鋭く指摘されている。
上告人の主な反論
上告人(原告住民)は、以下の点を強く主張した。
- 手続的違法:訴状を被告に送達しないまま訴えを却下することは、民訴法上の訴訟係属の理論に反し、被告に応訴の機会を与えないものである。
- 象徴規定の解釈:「象徴」とは物理的・機能的な規定にすぎず、人格や責任能力とは無関係である。象徴性から民事裁判権の免除という効果を導くには明文の立法が必要であり、裁判所が立法権を行使したに等しい。
- 公私の区別:本件は天皇個人の私的財産(相続による不当利得)に関するものであり、公職としての天皇を相手方としたものではない。私的行為について誰も責任を負わないとすれば「悪事のやり放題」となる。
- 平等原則違反:憲法14条の法の下の平等に反し、天皇を国家の上に置くことは国民主権原理と相容れない。
これらの主張は、裁判所によって正面から論駁されることなく退けられており、この点もまた本判決への批判の一因となっている。
学説上の異論と対抗的見解
本判決をめぐる学説の状況は、必ずしも判例支持で一致しているわけではない。
免除肯定説(多数説・判例支持)は、象徴天皇制の本質論から免除を導く。天皇制は憲法によって新たに創設された独自の制度であり、一般私人の法的地位とは根本的に異なる。被告出廷・証人義務といった訴訟手続上の義務は、象徴としての尊厳・安定性と不可分に対立する。芦部信喜・野中俊彦らの憲法体系書はおおむねこの立場に近い理解を示している。
免除否定説・修正説は有力な批判を展開する。まず、現行憲法上、天皇への裁判権免除を定めた明文規定は存在しない。かつての大日本帝国憲法3条は「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と規定し不訴追を正当化したが、現行憲法にかかる規定はない。裁判権免除を認めるためには、少なくとも①憲法上の根拠、②代替的救済手段の保障という二要件が必要であるとする見解がある。また、樋口陽一は、象徴性の概念を民事免責の根拠とすることには論理的飛躍があり、国民主権・法の支配の観点から問題があると指摘する。
さらに、私的行為と公的行為の区別を重視する立場では、天皇の行為をすべて一律に扱うことには疑問があるとする。公的(象徴的)行為については内閣責任論で説明できるとしても、純粋な私的財産関係(例えば相続・売買・交通事故)についてまで免除を及ぼすことは過剰であるという批判である。この問題は本件でも上告人が鋭く指摘したが、裁判所は明確な回答を示していない。
憲法学的基礎理論との関連
天皇の法的地位をめぐる議論は、日本国憲法の基本原理と深く絡み合っている。
国民主権との関係では、天皇は統治権の主体ではなく、「日本国民の総意に基づく」象徴として位置づけられる(憲法1条)。主権者たる国民の下位に位置するはずの天皇が、主権者の法的救済手段である裁判権から免れることは、理論的に緊張関係をはらむ。上告人が「天皇を国家の上に置くことは許されない」と述べたのはこの点を衝くものである。
法の支配との関係では、あらゆる権力・地位も法に服すべきという近代法の大原則が問題となる。天皇に対して法の支配が及ばないとすれば、象徴天皇制は法の支配の例外領域を創出することになる。もっとも、英国をはじめ多くの立憲君主制国家でも君主の法的免責は認められており、法の支配との整合性は各国憲法制度の枠内で議論されてきた。
権力分立との関係では、裁判所が法律の根拠なく一定の者を裁判権から除外することは、本来立法府が行うべき政策判断を司法が代行するとの問題がある。上告人はまさに「裁判所が天皇のために民事訴訟法を立法した」と批判しており、この指摘は司法の憲法解釈権の限界という普遍的問題に接続する。
比較法的視点:他国の君主・元首の法的地位
天皇の民事裁判権免除という問題は、比較法的には広く「君主・元首の法的地位」の問題として各国で論じられてきた。
イギリスでは、コモン・ロー上「The King can do no wrong(国王は不法を行わず)」の原則のもと、君主は訴訟当事者となりえないとされてきた。ただし1947年の Crown Proceedings Act により、国(Crown)を被告とする訴訟は可能となり、実質的な損害の救済は確保されている。君主個人の私的行為については依然として免責の問題が残るが、国としての国家賠償が代替機能を果たす。
スウェーデン・ノルウェー・デンマークなどの北欧立憲君主制国家では、憲法または法律によって君主の不訴追・免責が明文で規定されている場合が多い。法的根拠の明確性という点で日本とは対照的であり、「明文なき免除」を判例で認めた日本の判決構造とは異なる。
スペインでは憲法56条3項が国王の不可侵性(inviolabilidad)を明文で定め、刑事・民事上の責任を負わないことを規定している。ただし、国王の行為には首相等の副署(refrendo)が必要であり、責任は副署者に転嫁される仕組みになっている。これは日本の「内閣責任代替論」に構造的に近い。
オランダの憲法42条は「国王は不可侵であり、大臣が責任を負う」と規定する。この明文規定は、日本の判例が「象徴性」から解釈論的に導いた免除を、憲法上明確に基礎づけたものと理解できる。
共和制国家(ドイツ・イタリアなど)では、元首(大統領)について在任中の訴追免除を定める国も多いが、これは「在任中」という時間的限定付きであり、退任後は通常の法的責任を負う。日本の天皇の場合、終身制であることと相まって、代替的救済手段の欠如という問題がより深刻に現れる。
比較法的にみると、君主への裁判権免除それ自体は異例ではないものの、①明文の憲法・法律規定による根拠付け、②国・政府を通じた代替的救済手段の整備、③私的行為と公的行為の区別、という三点において各国は日本よりも整備された制度をもっていることが多い。
象徴天皇制の本質と民事裁判権免除
本判決が提起する最も本質的な問いは、「象徴であることから、なぜ民事裁判権の免除が導かれるのか」という論理的連関である。
上告人が鋭く指摘したように、「象徴」規定は本来、天皇の憲法上の機能・役割を定めたものであり、それ自体は法的責任の有無と直接の論理的関係をもたない。「どんなに無能な天皇であっても象徴であることに変わりはない」という上告人の言は、象徴性が内容的・人格的評価とは独立した制度的地位であることを正確に表している。
これに対し免除肯定説は、象徴天皇制が単なる機能規定ではなく、天皇制という制度全体の特殊な法的地位を包括的に設定するものであると解する。すなわち、憲法1条・2条・3条・4条が一体として天皇制を構成し、その中に内閣補佐制・国事行為限定制と並んで、民事・刑事の訴追免除が暗黙の前提として内在している、という解釈である。
さらに機能論的には、天皇が訴訟当事者として出廷する事態は、象徴としての「超党派性・超政治性」を損ない、司法という権力機関との摩擦を生み出し、象徴制度の安定的機能を阻害するという実質的根拠が挙げられる。これは、英国君主が政治的発言を厳に自制し、選挙・政党から距離を保つことで象徴制を維持しているのと類似した論理構造をもつ。
もっとも、この機能論は「だから救済なしでよい」という結論を正当化しない。損害を被った国民が天皇に対して法的救済を求める手段を一切もたないとすれば、それは法治主義の空白を意味する。スペイン・オランダ等の制度が国王の免責と並行して副署者・大臣の責任制度を整備しているように、代替的救済制度の設計こそが象徴天皇制の法的完結性に不可欠であるとの指摘は重要である。この点において、本判決および現行の法制度には、立法論的課題が残されていると言わなければならない。
上告人の主張(反対論)
- 法の支配の貫徹: 天皇も「人」であり、私的生活における責任は負担すべきである。「象徴」という規定から直接的に裁判権を免除する根拠はない。
- 裁判を受ける権利(憲法32条): 天皇を特別扱いすることは、国民の裁判を受ける権利や法の下の平等(14条)を侵害するものである。
- 無答責の範囲: 本件は「国事行為」ではないため、内閣が責任を負うものではなく、天皇が免責されれば国民は「泣き寝入り」を強いられる。
現在の通説的理解
最高裁が「民事裁判権が及ばない」と判示して以降、実務上は確立された。ただし、その範囲(完全に私的な行為であっても免除されるのか)については、依然として憲法学上の議論が残る部分である。
天皇の刑事裁判権
天皇に刑事裁判権は及ばない。
憲法3条および4条の趣旨に基づき、天皇は国政に関する権能を有さず無答責であるため、刑事責任を問うことはできないとするのが通説的見解である。
上皇の刑事裁判権
上皇に刑事裁判権は及ぶか。
- 肯定説: 天皇ではないため、憲法上の特権は認められない。
- 否定説: 象徴としての公的な性質を考慮し、類推適用すべきである。
現在の皇室典範特例法下における解釈上の争点である。